DEUX OU TROIS CHOSES QUE JE SAIS D'YODA
ヨーダについて知っている二、三の事柄
#01 ヨーダ=依田さん説に関するレポート
INTRODUCTION
No! No different!
Only different in your mind.

何も違いなどない。違うと思うのはお前の
心のもちかたのせいだ

No! Try not. Do. Or do not.
There is no try.

やってみる、ではない。やるのだ。
試しなどいらん

Size matters not.
大きさは問題ではない

ヨーダの言葉は、物語の主人公たる若者に対して語られるセリフであるが(★1)、それは同時に我々観客に対して語られる言葉でもある。短くも、普遍的な真意を突いたそれらの言葉を放つヨーダは、フォースの奥義を私達に垣間見せてくれる重要な人物だ。
この重要なキャラクターをマペット人形を使った撮影で本当に描ききる事が出来るのか・・・、ルーカスは『帝国の逆襲』製作中に常に頭を抱えていたという。しかし、ジョー・ジョンストンがデザインし、フランク・オズの演出によって命を吹き込まれた“ジェダイマスター”ヨーダは、映画史上に残るキャラクターとなるばかりか、80年代アメリカ文化の排出した重要なキャラクターとなり、英知、思慮、正義の象徴として日常に浸透する存在とまでなった。例えば哲学者をさしてヨーダと言う事すら日常的な言い回しとして浸透している。
サミュエル・L・ジャクソンは、『エピソードI』のキャスティングを行なっている頃に、とある授賞式で「共演したい俳優はいますか?」とステージ上でプレゼンターに聞かれたところ、「ヨーダ」と答えたという。この言葉が元で、メイス・ウィンドゥ役のオファーが彼にかかったというのは有名な話。この逸話をもってしても、ヨーダがクリーチャーではなく、人物として人々の心に刻まれていることがわかる。しかも人気俳優が共演を望む程の人物としてだ。
ヨーダは、他のクリーチャーと差別化されているばかりか、俳優が演じたどのキャラクターよりも奥ふかく、慎ましく、正しく、愛らしく、そして力強い。
ここでは、スター・ウォーズ・サーガが生んだこの特異なキャラクター「ヨーダ」に様々な位置から焦点を合わせ、そのシルエットを浮き彫りにしてみたい。

★1 厳密には、オビ=ワンの霊体に対して語るセリフもあるが
大意をとってこのように表現しました。

MOTIF
ジョンストンによる
初期のスケッチ

こんなのがマスター
だったら・・・
後期のスケッチ
だいぶそれらしくなってきました
奇妙でありながらも愛らしいヨーダの容姿に関しての情報は、ある意味では豊富にあるが、それは完全ではない。
あの造形が、どのような変遷をへて至ったものなのかについては、関係者の発言録や文献が豊富にあるので、それら情報を紡ぐ事によって状況を察することは比較的容易である。
当初、ジョー・ジョンストンの描いたヨーダのイメージスケッチはヨーロッパの寓話やおとぎ話に登場する「森の妖精」のようなものであった。このスケッチをみる限り、そのクリーチャーは耳こそ尖っているが、「ジェダイ マスター」というよりは「森のいたずら者」といったイメージに近いものであったことが分かる。またこの時点でヨーダというネーミングは確定してはいない。
その後ジョンストンのスタディー画は重ねられ、次第に「老人」のイメージが強いものとなってく。最終的なヨーダの人相は、『帝国の逆襲』のメークアップアーティストであり、クリーチャーデザインを担当したスチュワート・フリーボーンと、かのアインシュタイン博士の表情を足したイメージで作られた、という話が製作者の口から語られている。

しかし、「ヨーダ」という端的でありかつ奥ゆかしいネーミングについての、選考から命名に至るまでの経緯に関する情報は、我々日本人にとって興味深い噂こそあるものの、ルーカス及び関連会社からの公式なアナウンスは一切おこなわれていない。
その興味深い噂とは、かつてよりしばしば語られる事なのだが、「日本人の依田さんがヨーダのモチーフである」というものである。この噂が事実だとして、どういう経緯をへてルーカスは「依田さん」を知ったのか。また、ルーカスと「依田さん」とは直接の面識があったのか?

そもそも「依田さん」とはどこの誰なのか?
「依田さん」とは、『帝国の逆襲』公開当時、大阪芸術大学教授であった依田義賢(よだ よしかた)教授の事である。

依田は映画脚本家として昭和中期の日本映画界を支え、71年に大阪芸術大学・映像計画学科の新設と共に学科長教授となった人物である。
クロサワ(黒沢明)、オズ(小津安二郎)と共にかつて日本が世界に輩出した映画監督ミゾグチ(溝口健二)のメインライターとして、「ヨシカタ ヨダ」の名は50年代から海外でも通っていた。つまり、依田教授としての「依田さん」というよりは、著名な脚本家としての「依田さん」がルーカスと何らかの交流があり、ヨーダのネーミングの由来となった可能性が高いのである。

物語を通して、最も重要なキャラクターの一人であるジェダイマスターに名を貸すに至った依田義賢とはどんな人物なのだろう。

溝口の殆どの作品を手掛けた脚本家として世界的に有名であった依田は、溝口亡き後、日本映画界をリードした人物の一人であった。また、これからの映画界を築く新しい人材の育成に関しても非常に熱心で、教育者としても多方面に活躍の場を積極的にもった人物でる。
大阪芸術大学にて依田教授より脚本を学んだ人物によると、依田はとにかく屈託のない性格で、著名人であるにもかかわらず、学生と対等に意見を交わし、学生たちの卒業制作映画の撮影にも深夜まで立ち会い、常に現場での教育を主張し徹底した教育熱心な人物であったという。また、学生の面倒見もよく、制作のあとは、大学の最寄駅である天王寺駅前の居酒屋で学生たちと遅くまで語り合いながら酔いしれる依田の姿がよく見られたという。
また、依田は実直な人物としても有名だったらしい。公の場であっても、表裏なく京都弁でしゃべりまくり、まわりの教授陣をひやひやさせた事もしばしばあったようだ。依田の教育にかける熱意は、その場を学内だけに留める事はなかった。
71年に教授として就任した時、彼は既に六十二歳であったが、80年代後半、八十歳に近い年齢になった時期でも、国際映画大学フェスティバルへの出席などを積極的に行い、学生同士の国際交流の場へも自らが赴き、世界各地で講演会を行っていた。

若者に、映画作りの道を語るとき、依田は京都弁に愛敬のあるコミカルな表現を折りませながらも毅然とした態度で語っていたという。
また、常に現場主義を貫き、怠ける事を嫌う人物であった。大先生といわれる様になっても尚、「脚本家は職人である」というスタンスを生涯もって貫いた人物でる。
こういった依田の人物像をもってすれば、依田の名がジェダイマスターに投影された事は、不思議な事ではないように思える。しかし、依田とルーカスは何時、何処で接点をもったのか。
80年代前半の依田教授
ルーカスは「アタナの耳は面白い形をしている」と依田教授に言ったそうです。
LUCAS MEETS YODA
★2 依田義右さんも依田教授です。大阪芸術大学教養学部主任教授にして西洋哲学を教えておられます。専門は17世紀フランス哲学で、フランス語も教えておられるそうです。「父の名が使われたヨーダが哲学的な人物である事は非常に興味深い。その因果性を思うと鳥肌がたつ思いだ」と義右さんは僕に語ってくれました。


イギリスの映画評論家トニー・レインズは、「日本の脚本家・依田義賢が、ヨーダのモチーフである」と発言している。さらに、「依田がサンフランシスコのフィルムアーカイブで講演会を行ったした際に、フランシス・F・コッポラが聴講しルーカスに紹介したのが、依田とルーカスとの出会いである。」としている。この件に関しては、ルーカスも認めているとレインズは語っているのだ。つまりこのサンフランシスコの講演会が、ルーカスと依田を結び付けたといういのだ。
このサンフランシスコでの講演会については、依田の実の息子であり現大阪芸術大学芸術学部教養課程主任教授である依田義右氏
(★2)も、その事実を認めている。また、義右氏自身も当時ハリウッド在住の友人から「ヨーダのモチーフは、君のお父さんなんだよ」という電話を受けたと語っている。しかし、サンフランシスコのフィルムアーカイブが何故突然に依田の公演会を開く事になったのか。
依田には娘がいた。70年代中期、彼女はサンフランシスコ近郊のバークレーのカレッジに留学していたのである。留学のさなか、ある交流会で映画関係者との世間話の中で、自分が溝口映画のシナリオライターであるヨシカタ・ヨダの娘である、と彼女が説明したところ、周りの人間がその話を面白がり、「それならヨシタカ・ヨダを招待して是非講演会を開催しよう」という話がもりあがり、依田のサンフランシスコでのフィルムアーカイブ講演会の企画が挙がったというのだ。そして開催された講演会の場にコッポラも出席したという訳だ。
このフィルムアーカイブでの講演会で交流をもったコッポラと依田は、その後京都で再会している。コッポラが京都に来た際に依田が一日京都案内を務めたのである。同行したコッポラの娘(ソフィア・コッポラ)に京都観光の記念にと、依田自身がくしを選び買い記念に手渡したという一幕もあったという。
依田とコッポラとは、この様にコンタクトをとりあっていたが、ルーカスと依田が直接会ったのは、このフィルムアーカイブでの対面のみとなっている。
依田は、コミカルな表現と、物事の真を突いた鋭い発言を織り交ぜ、聴講者たちを引き込む講義が得意であったという。ボディーランゲージを織り交ぜたレクチャーがコッポラらを魅了したであろうことは概ね察しのつくところだ。


残念ながら依田は平成3年11月14日に永眠しており、本人に話を伺う事はもはや不可能である。しかし、本人がヨーダの件について言及している下りが「依田義賢対談集 スクリーンに夢を託して」(なにわ塾厳書)にある。この書の中で「先生がスター・ウォーズのヨーダのモチーフというのは本当ですか」という質問に対して依田は国府答えている・・・
「それはね、ルーカスさんにとっくり聞いてみないとわからない。わからんけれども、アメリカじゃあれは依田やというんですね。YODAっていうのはないんです、アメリカにはね。YODERっていうのはあるらしいんですけどね。顔もね、似てますよ」
なるほど確かににているような気がする。
講演会でのひと幕
長谷川和夫氏との対談風景
この横顔、確かにヨーダの面影あります。
YES OR NO !?
★3 『ジェダイの復讐』冒頭、ジャバの城でC-3P0とR2-D2に役務を言い伝えるいじわるそうな監視ドロイド。設定では、欠陥品の女ドロイドで、性格がとても悪いらしい。しかし、ドロイドに性別がなぜ必要なのだ?
EV-9D9
★4 当時「ほぼ日刊イトイ新聞」では、ヨーダ=依田さん説が盛り上がりをみせていた様です。丁度私が依田義右さんと連絡をとりあい、現存する情報を整理してまとめあげ「スター・ウォーズ完全基礎講座」のために入稿してから、本が出版されて『ファントム・メナス』が公開されるまでの間でしたから、まさに同時性ってやつかもしれません。
依田教授の教え子のひとりである松尾キッチュ貴史さんも、その後依田さんについての逸話をヨーダのモチーフという件に絡めて語っていました。
「・・・YES か NO でお答えください。ヨーダの元は依田さんですか?」
これは1999年6月、『ファントム・メナス』日本公開に合わせてプロモーション来日したルーカスの公式記者会見の場で、コピーライターの糸井重里氏がルーカスに投げかけた質問だ。
糸井氏の比較的長い発言の最後に投げかけられたこの質問。C-3POに詰問するEV-9D9
(★3)のセリフに似ていたからであろうか、ルーカスの返答は本当に一言だった。
もちろん「NO」である。
実際には通訳をつとめた戸田奈津子氏が、どのように糸井氏の質問を伝えたか、も確認しなくてはならないが、この件に関しては、基本的に「イエスかノーで答えろ」と問われたら、答えは「ノー」となるに決まっている。ここで触れているように、実質的な意味でヨーダのデザインは『ジュラシック・パーク3』『遠い空の彼方に』などを監督したジョー・ジョンストンがILMにいた時に描いたデザイン画からおこされたのだから。
部分否定、部分肯定の余地がない質問だった訳だから、この様な返答が返ってきてしまったのは当然といえば当然であった。
何にしても、この問答によって紐解けるかもしれなかったエピソードが封印されてしまったのだ。
糸井氏は自分のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」
(★4)で、「・・・とはいうものの、真相はわからない」という旨の見解を当時述べていた。そして一連のヨーダ=依田教授説は収束の一途をたどることとなる。残念ながら真相は闇に葬られてしまったのだ。
NEW FACTS
2001年秋、一通の手紙が私の手元に届いた。依田義右さんからだった。「父の資料を整理していたら色々と出てきたので」わざわざ私に送ってきてくれた、というのだ。
封を開けると丁寧な手紙にあわせ新聞記事のコピーが10枚程同封されていた。
送られて来た記事をひとつひとつ読んでいくと、依田義賢教授が70年代前半に新聞各紙に寄稿した西海岸講演会の記事などに混じって、1978年5月3日付けサンフランシスコ・クロニクル紙の記事があった。そこには依田教授の講演会の様子がレポートされていた。
この記事では聴講者のに関する情報は記されていなかったが、義右さんからの手紙では、「同時期同新聞に、『ルーカスら若手映画監督が聴講した」という記事が載っていたはずだ』というのだ。
講演会は数日行われたので、この前後数日間の記事をあされば、点と点が繋がっていた事が史実として証かされることとなる。

私は義右さんともに、この件に関する情報を引き続きかき集め、事実を究明していくつもりだ。

経緯は、追ってこの場で報告していきたいと思う。

左がサンフランシスコ・クロニクル紙の記事で、右は全国紙に掲載された依田さんのレポートで、西海岸での日本映画に関する関心の高さを伝えている。
>INDEX
>CONTENTS
>GUEST BOOK >NEXT