DEUX OU TROIS CHOSES QUE JE SAIS D'YODA
ヨーダについて知っている二、三の事柄
#02 ヨーダの教えとフォースの変遷
A NEW HOPE
ヨーダの教えはフォースの教えである。ではフォースとは何か?
その主題は、しばし宗教的な側面から語られがちだ。それは、フォースの持っている観念が、人が宗教に求める絶対的なそれと近しい存在だからだろう。
しかし、スター・ウォーズで描かれるフォースは、それ自身が万民を救う宗教ではない。誤解を恐れず言ってしまえば、旧三部作では、あくまでルーク・スカイウォーカーの成長を描くための設定でしかないのだ。
そしてヨーダは師匠ではあっても、決して万民の教祖ではない。
この大前提を確認した上で、物語の上でのヨーダの意味を見つめ直してみたい。
スター・ウォーズ三部作の中で最も完成度の高い作品は、『新たなる希望』だろう。起承転結の明確なストーリー構成、テンポのよさ、BGMの作り込み。『新たなる希望』には、その後の続編にはない完結性と誰もが受け入れる事ができる柔軟性を持っていた。それは、興行成績とオスカーの数が証明している。
しかし、我々が現在捉えているスター・ウォーズに対するイメージと、『新たなる希望』公開当時のスター・ウォーズに対するイメージにはかなりの差異がある。
『新たなる希望』単体におけるスター・ウォーズの世界観は、広大でありながらも深みのあるものではなかった。それは入念に描かれてはいたが、勧善懲悪のストーリーをプロットするために描かれた表層的な世界に留まっていたと言い切ってようだろう。
オビ=ワン・ケノービの言葉によって脈々と流れる雄大なスター・ウォーズ サーガの歴史をちらつかせるシーンもあるが、それらを織り込んで直接ルークの冒険物語に深みを与える事は、残念ながら『新たなる希望』単作では不可能だった。
この設定は少なくともその時点では「とりあえずの時代背景」という過去のプロットに過ぎなかったと言い切ってよいだろう。
ダース・ヴェイダー(アナキン)とオビ=ワンの対決にしても、今となっては新三部作からの流れを汲んだスター・ウォーズの歴史の上でも重要なシーンと言えるが、『新たなる希望』単体に於いては、ルーク・スカイウォーカーの成長に必要な布石として「オビ=ワンの消滅」は描かれているに過ぎない。
少なくとも、ヴェイダーがルークの父親だという真実が明かされていないその時点では、あくまで「オビ=ワンの消滅」は、冒険をする若者が頼る事の出来る居心地の良い存在であったものを失う事を意味するに留まっている。
このように『新たなる希望』は、オビ=ワンによってフォースという光を与えられた青年ルークの冒険劇と言い切れるが、成長劇としては決して完成度の高いものではなかった。何故ならルークの精神的成長を描くスタンスがほとんど見受けられないからだ。
『新たなる希望』は、神話のエッセンスを下敷きにしておきながらも、勧善懲悪を具現化した「分かり易い冒険物語」の域で物語は展開し、「誰でも分かる単純明解なストーリー」を徹底した娯楽映画として確立されているのである。しかしルーク・スカイウォーカーの物語は、二作目の『帝国の逆襲』によって様相を一転することとなる。
シリーズ第一作『エピソードIV 新たなる希望』は明快なストーリーとテンポのよさ、そして圧倒的な独自の世界観によって多くの人を魅了した。
シリーズ完結の暁には、最も感極まるシーンとなるであろう、オビ=ワンとヴェイダーとのデュエル。戦いのさなか、剣先をまじえつつ、オビ=ワンは消滅する。
LIGHT IN DARKNESS
ダゴバでの修行
目的は精神面の修行であり
芸を磨く訳ではありません。
シリーズの中でも異質な印象を与える洞窟のシーン。表現技法としてスローモーションを使い幻想的なシーンに仕上がっているこのシーンは、ルークの内面に潜むダークサイドを描写している。
『新たなる希望』は、老若男女を問わず、またあらゆる人種の人々が文句なしに楽しめる娯楽映画として製作された。しかしルーカスは、その娯楽映画の裏に壮大なプロットをしかけ、本当に語りたかった主題をシリーズ続編に於いて展開してゆくための布石を敷いていたのである。
その主題に対してのアプローチは、続く『帝国の逆襲』に於いて早速行われることとなる。
それは文字通り修行として描かれた。ルークはフォース学ぶ過程において、様々な成長をとげることとなる。そして物語を通した作家の意図としてのメッセージが姿をみせはじめる。このメッセージを代弁する弁士として物語に深みを与えるのがヨーダだ。

フォースの定義一つをとっても、一作目と二作目の違いは明解だ。
『新たなる希望』ではフォースはある種の超能力の様な扱われかたをされていた。しかし、『帝国の逆襲』でフォースについて語られる内容はより精神的、観念的なものへと移行している。そして若者に、正しい道を具体的に指南するのがヨーダである。

ヨーダは、若者に何を教えたのか。

オビ=ワンがルークに教えた事は、抽象的なフォースの概念だった。それは物語のスピード感を損う事のない適度なものであり、その説明を聞いたルークは受動的に身を任せる様にしてジェダイへの道の第一歩を歩み始める。
それに対し、『帝国の逆襲』でヨーダがルークに唱える事は、むしろ主体性を要求するものである。ルークの能動的な姿勢があって初めてフォースの修行は続ける事が出来た。「試しなど、いらない。やるかやらぬかだ」という言葉は、ヨーダがルークに何を要求しているかが最も具現化されている発言といえよう。
主人公の受動的姿勢から能動的姿勢への移行は、成長劇の中では欠かせないターニングポイントである。ルークも例外にもれず、主体性を持った人物に成長する為の禊(みそぎ)を行なう必要があったのである。

ルークがダゴバで得た最も重要な物は、自分自身の心の闇の自覚である。それは、洞窟の内で遭遇するヴェイダーの幻覚としてルーク自身の前に現れる。闇を自覚することによって、初めて光は活きることとなる。
オビ=ワンは、フォースという光をルークに自覚させた。そしてヨーダは、自分自身の心に宿る闇をルークに自覚させたのである。
ルーク・スカイウォーカーにとってのヨーダの存在意義はこの一点に集約されている。
そして我々にとっては、ヨーダはフォースの表裏一体性を語ってくれた重要な人物といってよいだろう。彼のお陰でスター・ウォーズという物語は、古典文学と等しい程の奥深さをもち、説得力を獲得しうることができたのである。
JEDI COUNCIL
『ファントム・メナス』で再びヨーダが登場することは多くのスター・ウォーズファンにとって嬉しい事だった。今年公開されるエピソードII『アタック・オブ・ザ・クローン』においては実戦シーンもあるというから、それはそれで楽しみだ。そして当然ながらエピソードIIIにもヨーダは登場し、重要な役どころをこなすに違いない。

『ファントム・メナス』でのヨーダの役どころはジェダイ評議会の重鎮であった。ここで彼はまたもや奥ゆかしくも心理を突いた言葉を若者に対して放った。


Fear is the path to the Dark side.
恐れはダークサイドへの道

Fear is to angyr,angry is to hate...
恐怖は怒りへ、怒りは憎しみへ・・・

Hate is the suffering.
そして憎しみは苦しみとなる

ここでいう「苦しみ」とは、「他人の苦しみ」でもあるが、同時にそれは「自分自身の苦しみ」でもある。憎しみに身を委ねて相手を負かせたとしても、それは勝った事にはならない。憎悪感にのまれたにすぎないのだ。
日常において、些細な事であれ、そのような経験をした人は多いだろう。相手を言いくるめはしたが、なんか後味が悪い思い・・・とても勝った気がしない思い。

ヨーダは、『ファントム・メナス』において早くも少年の未来の陰りを予感していた。アナキン・スカイウォーカーは、聡明で、やさしい上に思いやりのある少年として登場した。ヨーダはそんな少年のどこに陰りを感じたのか。
それは、彼の恐怖心だった。少年の恐怖心の強さをヨーダは感じ取ったのである。
アナキンに修行をさせようとするクワイ=ガンに対し、ヨーダは慎重な姿勢を見せる。ここでのヨーダは旧作の様に、青年に対し正しい道を指し示す人物というよりは、賢者のひとりとして描かれている。ジェダイ評議会の中心人物として、鋭い眼光をもって真実を見極める人物である。
それは、ダゴバにいたヨーダとは違った側面での奥ゆかしさを物語に与えてくれた。

ジェダイ評議会にて試されるアナキン。
本当に試されていたのはフォースの強さではなく・・・
眼光も心なしか鋭く、長としての貫禄もある『ファントム・メナス』のヨーダ
LIVING FORCE
ジェダイ騎士の精神は、中世ヨーロッパの騎士道などに比べると、東洋武道からの影響が深くみられることはよく語られる事だが、アメリカのネイティヴ インディアン文化と比較するとより解りやすい。
かつてインディアンは部族単位の社会を形成していた。若者は戦士として部族を支える事になる訳だが、戦士の成長には酋長の他に、「メディシンマン」といわれる長老の力が必要であったと言われている。『帝国の逆襲』でのヨーダは、この長老的な存在だったといって良いだろう。若者に対して、精神面での成長を促すための修行を行うのである。そして若者に正しい道を指し示す人生の師としての重要な役割をもつのだ。
しかし『ファントム・メナス』のヨーダは部族の長、つまり酋長的存在として描かれた。
この違いは、単にヨーダが現役なのか御隠居なのか、という立場の違いから来るものではない。16年ぶりの新作を公開するにあたって、ルーカスはフォースに関する観念的なプロットを仕掛けていたのだ。
立ち話ながら、オビ=ワンに「生けるフォース」の重要性を伝えるクワイ=ガン

『ファントム・メナス』では、新たなフォースの概念が表現された。「生けるフォース」と「統合のフォース」だ。
「生けるフォース」は主にクワイ=ガンが唱えるもので、今自分を囲んでいる全てのものからフォースを感じる事が大切だ、という主観的な思考である。

それに対して「統合のフォース」は、ヨーダをはじめとするジェダイ評議会が唱えるもので、客観的に未来を読んだ上で現在の自分のあり方を考える思考である。

「・・・この子の未来には陰りがある」
『ファントム・メナス』のこのヨーダのセリフを聞いて、違和感を持った人はいないだろうか。
『帝国の逆襲』において、ヨーダは未来ばかりをみるルークを叱りつけた。未来ばかりをみる事はジェダイには似合わないものだ、と言い捨てはしなかったか。
一方、クワイ=ガンは「先の事ばかりでなく、今、ここにあるフォース(LIVING FORCE)を感じる事が大切」と『ファントム・メナス』冒頭に愛弟子オビ=ワンに対して伝えている。この教えこそ、ダゴバでヨーダがルークに伝えたものである。
つまり時が流れ、少年がヴェイダーとなり、少年の息子が青年となるまでの期間に、ヨーダは「生きるフォース」こそが本当のフォースだと悟ることになるのだ。
これからのエピソードII &III において、ジェダイ評議会に於けるフォースの概念が覆される事になるのは自明ということになる。

ジェダイ評議会の中においては、異端児的な扱いを受けつつも信念を貫いたクワイ=ガンの主張を、ヨーダをはじめとするカウンシルが受け入れることになる訳だ。もしくは「統合のフォース」を貫く故の衰退をカウンシルは余儀なくされるのかもしれない。

いずれにせよ『ファントム・メナス』の冒頭何気ないこの会話が、実は今後のフォースの変遷を暗示する序奏となっていたのだ。
無論ここでいう「生きるフォース」とは、単なる主観論で語らえるものではない。むしろ、客観性を持ち得た上で語る事ができる自己の意志としての主観と言ってよいだろう。
ルーカスは、かつて『帝国の逆襲』においてフォースの概念をより深いものに発展させた。そして『ファントム・メナス』においては、さらにフォースの概念をブレイクダウンし、深くゆるぎないものにしたのである。
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